NANTO Wiki

浪化(ろうか)

越中における、蕉門随一の俳人とされ、越中各地の俳壇に多くの影響を与えたとされる。瑞泉寺第11代住職の応真院常照で、浪化はその俳号である。

東本願寺第14代琢如(たくにょ)の七男で、寛文11年(1671)に京都で生まれた。延宝5年(1677)、わずか6歳で瑞泉寺の住職となった。父の琢如や兄の常如も俳諧を嗜んでいたとのことで、浪化にとって俳諧は身近なものであった。浪化がいつ頃から俳句をつくりはじめたかは定かではないが、その名が初めて俳書に見られるのは元禄4年(1691)のことである。そして元禄7年(1694)に、念願の芭蕉の門人となる。しかし入門してほどなく、師匠である芭蕉は51歳の生涯を終えている。その後、浪化は芭蕉の墓の小石3個を持ち帰り、浄蓮社の境内にそれを納めて、翁塚を立てた。

元禄8年に「有磯海」「砺波山」、元禄11年に「続有磯海」という句集を刊行した。元禄14年に刊行した「そこの花」は、越中の俳人72人の句が載せられ、加賀・越中の元禄後期の蕉門の様子をうかがうことのできる、優れた句集とされている。浪化は芭蕉の直弟子として、各地で多くの俳人との交流を深めるとともに、井波の人々との交流も大切にしていた。句会というような堅苦しい集いばかりではなく、八乙女山に遊びに行き、句に興じることもあった。元禄16年(1703)にわずか32歳の短い生涯を閉じるが、その間に300以上もの句をつくった。その句は、芭蕉の流れを受け継いでおり、気品高く優れているとして、いまも高く評価されている。

出典

・井波町史編纂委員会編『井波町史 上巻・下巻』1970年
・千秋謙治『井波 歴史のうねり600年』1990年

SNSでシェアする

この記事に間違いがありましたら、修正フォームよりご連絡ください。

NANTO Wiki 一覧
ページトップ