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南砺市に存在している数多くの文化芸術資源に関する情報の一元化がこのページの目的です。 旧8町村の町史・村史等から文化芸術に関する情報をピックアップし、このページに集約しています。こちらのページは、市民の皆様の文化的知識を集約し、反映することも目的としているため、皆様から情報収集を行いながら少しずつ作り上げていくコンテンツです。
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※本ページは、JSPS科研費JP16K14997の助成を受けた成果物に基づき作成しております。
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旧福野町。この付近から石器や土器が出土していることから考えて、砺波郡でも古くから開けていたところである。
旧福野町。荊波(うばら)の神が加賀より二俣越えで砺波野に出るとき、平野の中に森林がうっそうと繁っているのを目印にされたことから、森村と名付けたという。
旧福野町。田屋というのは、村から遠く離れたところを耕作するとき農具や肥料を収めたり、農繁期に寝泊まりするために作った小屋のことで、万葉集の中にも「御田屋」の語が見える。
旧福野町。清和源氏の流れをくむ太郷加賀右衛門広安が作った村であるという。太郷広安は、木曽義仲の末子義基と伝えられ、乳母に背負われ加賀の蟹谷に逃れたので、加賀右衛門と名乗ったと伝えられている。
旧福野町。越の下草によれば「むかし、高瀬の神が高麗から渡来したとき急に雨が降ってきた。しかし神は雨を潜っても進むと言ったということで雨潜野になった」と言われている。大正二年(1913)に雨潜野か...
旧福野町。越中志徴によれば、高瀬の権現がそのむかし、高麗より渡来されたとき、江田村の宮地でしばらく休息され、そこから高瀬へ移られたという。その後、毎年宮地は高瀬の神の御旅所となり、神地となってい...
旧福野町と旧井波町。旅川の始点に位置するこの村は、正保元年(1644)から幕末まで十村役を勤めた武部家があり、この地方の中心的な村落であった。福野には西村、向西村の一部、東村の一部が編入され、残...
旧福野町。高瀬村に続いた原野で、室町期に僧侶の隠遁地(世を逃れて隠れる地)となっていたのを足利尊氏(1305~1358)が焼き払ったのでこの名があると言われている。
元和六年(1620)に小松原と呼んでいたところを新開したので、松原新と村名にしている。
旧福野町。庄川町の古上野が近世のはじめ庄川の洪水で屋敷・田畑を流失した。人々は高堀・墓浦・長源寺などへ移り、新しく上野村を立てた。
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