城端別院 善徳寺(じょうはなべついん ぜんとくじ)
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城端の大寺。浄土真宗東本願寺派(大谷派)別格別院。本尊は阿弥陀仏。城端町の発展に深い関連を持っており、城端の中核をなす寺院である。
文明三年(1471年)、本願寺八代連如(れんにょ)は、越前吉崎から金沢を経て井波へ向かっていた。その際、祖父巧如(ぎょうにょ)の弟の周覚法印が布教した加越国境の砂子坂(金沢市)を尋ねた。そしてゆかりのあるその地に道場を創建した。その道場を周覚の孫であり、蓮如のはとこである蓮真に附属させた。その後蓮真の子ども実円が相続した。道場は延徳元年(1489年)には、越中山本の里に移り、本願寺九世実如より寺号善徳寺を許され、加賀・越中・能登の三ヶ国の触頭(ふれがしら)に任ぜられた。その後天文六年(1537年)に福光に移すが、信仰のあつかった城ヶ端城主の荒木大膳の願いをうけ、永禄二年(1559年)に城ヶ端の城郭に寺を建立した。これは天正元年(1573年)に 城ヶ端が開町する十四年前のことであった。
その後、加賀藩における真宗東派寺院の触頭となり、越中での国法・寺法の触頭としてさかえた。加賀藩の治下に入ってからは、藩主前田氏が善徳寺に厚く保護を加え、両者は親密な関係を築いた。嘉永の頃には、第13代藩主前田斉泰の子亮麿が、住職として入寺し、藩とのつながりは更に深まった。明治九年(1876年)、善徳寺は城端別院と改め、真宗大谷派別院として現在に至っている。
善徳寺の本堂・山門・鐘楼・太鼓楼は、県指定有形文化財(建造物)、菊の間・台所門などの17棟が市指定有形文化財(建造物)である。
出典
城端町史編纂委員会編『城端町史』1959年
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