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山岳信仰と山伏(さんがくしんこうとやまぶし)

福光は加賀国境の霊峰医王山下に位置しているので、古くから山岳信仰を伝えてきたと考えられる。文明十三年(1481)福光城主石黒光義が瑞泉寺一揆に敗れたとき、医王山の寺坊も焼き払われてしまい、長らく栄えていた天台宗の法灯は福光地方から消えてしまった。しかし古来の信仰的伝統は民心に残存して山伏・行者による呪術・祈祷を受ける民家は多かった。やがて山伏たちが町や村に定住して神社の祀祭を掌るようになったのである。修験道を身につけた山伏に寄せる一般民衆の信仰は、その超人的霊験力による加持祈祷に現世的利益を期待したのであった。病気にかかったり、災害をこうむったりしたとき、奇蹟を現出したといわれる。

藩政時代において、福光の山伏としては、福光宇佐八幡宮寛仁寺の石黒氏、高宮比売神社法船寺の喜志麻氏、岩木寛勝寺の井頭氏、その他荒木の文珠院、高宮の村上氏などであった。そして、主として天台宗聖護院に属する本山派であった。また福光の宇佐八幡宮が疱瘡厄除のお守り札を出していたのは民間信仰を物語るものである。現在でも雨乞い・稲虫送りの祈願が行われたり、二十五歳・四十二歳の厄除け祈祷を請うたり、建築前立のとき神官に修祓をしてもらうのも、同じ意義を持っている。

出典

福光町史編纂委員会編『福光町史 上巻・下巻』1971年

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