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行徳寺(ぎょうとくじ)

上平地域西赤尾町地区にある寺。浄土真宗大谷派。本願寺八世法主蓮如上人の弟子道宗によって開基された。本堂は昭和初年に再建された。山門は約300年前の建築とみられ、風格もよい。庫裡は合掌切妻造りで、式台を設けて寺の庫裡としての特殊性がみられる。江戸時代末期の建築である。行徳寺の山門と庫裡は、昭和44年10月1日に、村指定文化財(建造物)に指定された。

道宗にまつわる話は多く残されており、行徳寺住職は以下のように話した。
「五ヶ山には真言の寺院や道場が実に多いが、五ヶ山がむかしから独特の文化と純朴な気風を培ってきたのは、信仰の力を見逃すことができない。そしてこの真宗を五ヶ山に広め、民衆の心に念仏の灯をともしたのは赤尾の道宗である。
道宗は、幼名を弥七といった。四才のときに母に死に別れ、十三才のときには父が病気のためにこの世を去った。弥七の嘆きはひとしお深かったが、幸いに、その後は叔父の浄徳になぐさめられて育ったのである。
この浄徳は、『この世では、死別した親に再び逢うことができない』からと、筑紫の五百羅漢への参詣を弥七にすすめた。そこでは親の似顔の仏さまが微笑まれるから、というのである。
あるとき弥七は、小原の在所への籠の渡し場で、小鳥がヒナを育てているのを眺めて、親を思う心がせつなく、遠い筑紫の国への参詣にと旅立つこととなった。
その途中に、越前の麻生津というところで仮寝をしたとき、夢の中に一人の旅僧があらわれ『汝、いずこの者にて、何の目的で旅に出たか。親にあいたいなら、筑紫へ参るよりも、京の蓮如上人をたずねるのがよい』との夢の告げをうけた。
純心な弥七は、早速と京都の蓮如上人のもとへ参り、三日三夜、座をかえずに上人の教えを聴聞したが、その真剣な態度が上人の目にとまって、弥七に両親のないことを聞こし召され、その側に留るようになった。弥七はそこで深く仏法に帰依するようになったのである。
弥七はその喜びを故郷の人々に伝えようと、赤尾へ帰ってきて道場を開いたが、求道の精神の旺盛な彼は、井波、城端はおろか、加賀、越前、山科へと、頻繁に足を運んで上人の教えをうけたのである。
さて、五ヶ山へ帰ってきた弥七は、蓮如上人から賜った名の〝道宗″と改め、毎年、本願寺に詣でて、親しく蓮如上人の教えをうけ、さらに行徳寺を開いて布教に専念した。
道宗は五ヶ山の隅々まで行脚し、四十八本の割木の上に寝て、自らを厳しく律し、各地に念仏道場を建てて人々の教化につとめたが、永正十三年(1516)、65才で入寂した。
道宗にまつわる伝説はいまも数多く各地に伝わっており、なおまた、文亀元年(1501)に著わした思い立ち候条二十一ヶ条は、道宗の信心をよく伝えているものである。」

出典

上平村役場『上平村誌』1982年

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