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塩硝(えんしょう)

塩硝とは、硝石のことで、硫黄と調合して鉄砲火薬を製造する爆薬原料とされている。中世末から作られた換金生産物でもある。藩政期には貢納のためほぼ五箇山全域に及んだ。ある種の夏草を刈って床下に掘られた穴に積んで蒸らし、それを釜で煮て結晶させる。各家で下煮された塩硝は、中煮屋から上煮屋へ集められて精製される。

加賀藩の対五ヶ山政策は、塩硝・和紙・漆等の特産物を基底に据えた税収が行われていた。塩硝が年貢の対象となったのは慶長十年(1605)八月、前田利長の五ヶ山市助に対する「五ヶ山納所策配申付状」に始まるものと考えられる。これによって、塩硝がはじめて税体系の中に組み込まれた。

塩硝製造は、家屋の床下において、畑土と養蚕の糞尿、山草等を混入して腐蝕させ、硝化バクテリアの働きによって硝酸塩を形成した土を水で溶出させ、その液を煮立て濃縮して硝石の結晶をとり出すものであった。この工程は農民の堆肥製造の技術にも通じ、塩硝製造に必要なものは、労働力と豊富な山草と薪のみであった。つまり、五ヶ山は塩硝製造にとって自然的にも人的にも好条件の地であった。なぜなら、江戸時代の五ヶ山においては、他の山村のように薪炭や、うど・ぜんまいなどの産物を、近くの城下や町宿へ売出して稼ぎにすることも出来ず、また出来たとしても少々の稼ぎにしかならず、その代銀も日用品にかえる程度で現金収入とはならなかったからである。従って五ヶ山農民は、豊富な薪材と労働力を利用して、塩硝製造を行なったのである。

五ヶ山の塩硝製造がいつ頃から始まったのかというと、文化九年(1812)に記された由来によれば、五ヶ山が本願寺の支配下にあった永禄(1558~1570)年中までは、五ヶ山塩硝は、糸・綿と共に本願寺に上納され、織田信長との石山合戦中は、大阪石山本願寺に上納したと伝承されている。その後、天正九年(1581)、越中支配が佐々成政に帰してからの実態を示す史料は発見されていないが、天正一三年(1585)、五ヶ山が前田氏の支配下となり、慶長十年(1605)の前田利長塩硝請取状によって始めて塩硝上納が確認される。塩硝上納から逆算して、秀吉の朝鮮の役の前半、文禄の役(1592~1593)で得た捕虜を、前田利家が申し受けて加州硝石の始祖としたのではないか、という説がある。

出典

平村史編纂委員会編『越中五箇山 平村史 上巻・下巻』1985年

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