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養蚕(ようさん)

五ヶ山中においては養蚕は耕作に次いでの主産業であった。和紙作りとともに屋内作業で、女子の仕事とされた。口承によると、五ヶ山の養蚕による繭糸すなわち生糸作りは、南北朝時代に新田義貞の一族郎党によって推進されたとされる。その後、天正のころ(1573~91)に至り、五ヶ山から砺波平野部の大鋸屋村に移り、さらに城端町へ出た畑一族が絹織物を開業して以来、絹糸の需要が高まり、五ヶ山中における蚕糸がいよいよ盛んになった。また、繭と糸は換金商品として五ヶ山の重要産物となり、夏に納める年貢は、繭と糸との売上金によってまかなわれた。明治維新によって塩硝・紙の藩買い上げが中止されると、生糸が第一の生産物になった。

養蚕は広い作業空間と、採光・保温を必要とすることから、アマ(屋根裏)が利用されるようになるなど、民家の構造に大きな影響を与えた。

出典

平村史編纂委員会編『越中五箇山 平村史 上巻・下巻』1985年

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