合掌造り(がっしょうづくり)
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五箇山の伝統的な家屋にみられる様式。五箇山の名物で、全国的にその名が高く、相倉・菅沼両集落は「五箇山の合掌造り集落」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
屋根は合掌組切妻。勾配は急で60度、断面は正三角形に近い。壮大で異様な切妻型四階建の合掌造りの家屋は、住民の暮らしの中から生まれた、すぐれた知恵の結晶した建築である。昭和10年、ドイツの建築家ブルーノ・タウトによって、飛騨白川の合掌造りが再発見されて、伊勢神宮・桂離宮などともに日本の代表的建築美として賞讃と高評価を得た。五箇山と白川との造り方において、屋根の高さ・勾配・間取などに多少の差異がある。しかし、五箇山の方では構造の規模もかなり大きく堅固のように思われる。これは土地が白川地方よりも狭小であり、かなり険しい河岸段丘上に建てるという、自然条件によるかとも思われる。
つぎに、合掌造りの成立要因として、次のように考えられている。(石崎直義著『秘境・越中五箇山』)。
①降雪量の多い、自然・風土に適応させて、屋根雪降ろしの労を少くするため、屋根の勾配を急にして徐々にずり落ちる工夫を考慮した。
②積雪量の多いときは、二階・三階から出入するための高層造りにした。
③主産業の養蚕用の設備として、シタアマ(二階)・ナカアマ(三階)があった。
④土間と床下をひろくして、紙漉き、糸挽き・塩硝作り・農業の内仕事・牛馬飼養など、多目的な利用を重んじた。
要するに、防雪を主にして、さらに、養蚕・和紙作り・塩硝作り・農業などの生産にも役立たせる、多目的構造を考え出した建築である。
なお、合掌造りの起こった年代については、はっきりとした記録文献は見出されないが、現存の、村上家(上梨)・羽馬家(田向)・岩瀬家(西赤尾)・羽馬家(小瀬)の四大合掌住宅の口承によると、だいたい藩政中期から後期にかけて建てられたものと推測される。その後、藩末のころから、中・小の合掌造りが各村に漸増したようである。
出典
平村史編纂委員会編『越中五箇山 平村史 上巻・下巻』1985年
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