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南砺市に存在している数多くの文化芸術資源に関する情報の一元化がこのページの目的です。 旧8町村の町史・村史等から文化芸術に関する情報をピックアップし、このページに集約しています。こちらのページは、市民の皆様の文化的知識を集約し、反映することも目的としているため、皆様から情報収集を行いながら少しずつ作り上げていくコンテンツです。
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画人。福光宇佐八幡宮拝殿「神馬図」の奉額の筆者。文久三年(1863)、紺屋与右衛門が奉納した。
画人。本名を左馬太郎といい狩野芳崖の門下である。竹内栖鳳とも同門であった。浅井忠の後を継いで京都国立陶器試験場長になり、京都の陶磁器業の発達に貢献した人である。当時の福光の人達はことごとく素空の...
明治・大正・昭和三代にわたって活躍した画家である。青年期は小山正太郎の不同舎画塾で洋画を学び、中村不折とともにその才能を並び称せられた。昭和二十年五月、北山田村梅原(福光地域)の知人宅へと疎開し...
世界的に有名な版画家。明治36年(1903)、青森県生まれ。
昭和20年4月、石黒村法林寺(福光地域)の光徳寺に一家をあげて戦火を避けて、疎開生活を福光で過ごした。それから6年8カ月...
彫刻家・陶芸家。明治21年(1888)、福光新町村生まれ。東京美術学校彫刻科を卒業後、美濃陶器工業学校に奉職。しばらくして郷里に戻り、高岡工芸学校に教鞭をとった。木彫、塑像いずれも卓越した手腕を...
画人。文人画の大家、浦上玉堂の子。天保四年(1833)五十五歳のとき、福光村の諸家に滞在した。越中出身の門人稲垣碧峰を伴って北遊した折りのことであった。写生的な山水花鳥を描いた。
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画人。東寅は、天保十年(1839)に没した有名な法眼、東東洋の子である。父の東洋は狩野家で育ったが、のちに狩野家を去り、丸山応挙や池大雅に学んだ。東寅も四条派に優れていた。『西涯翁夜話』によると...
画人。寛延二年(1794)、越中東岩瀬生まれ。丸山応挙と並び称された岸派の創始者。福光宇佐八幡宮の拝殿正面に掲げられた「猛虎の図」は岸駒の作で、岸駒の最も円熟した時期の作品である。
画人。川合宗兵衛。文化十三年(1816)生まれ。若くして江戸に出て浮世絵師葛飾北斎の門に入った。江戸の北斎門で技を磨いた春蝶は、師北斎の没した後、郷里福光に帰って郷土文化に新風を吹き込んだ。木彫...
画人。岸駒門下で越後の人である。士潤の別名がある。華陽の得意は鳥獣画で、天保八年(1837)三月、福光八幡宮に孔雀の大額を奉納している。
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