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慶安の大火

慶安二年(1649)の福野の町立てから2年程の間に64戸の家並みがそろったが、慶安五年(1652)2月、不幸にして大火に見舞われて全戸が焼失した。当初に町をつくった人々の多くは付近村落の小前百姓だったため、町に出た後も資力が弱く、村まわりの振り売り商人をしたり、田畑の請け作や日雇い稼ぎでようやく暮らしていた。全戸が焼失するという災厄は発足して間もない福野町にとっては致命的な打撃であった。町民だけの力でこの危機を切り抜けることは不可能であり、焼けた家を建て直し、町の発展を軌道に乗せるために藩の援助を仰いだ。藩の援助と町民の不屈の精神によって、町立て早々の不幸な災害を乗り切ることができた。

この慶安の大火の後、町民は町の安全を願って、福野神明社を建立するために、代表者を伊勢神宮に参拝させ御分霊を勧請した。この御分霊を奉じた一行が伊勢からの帰り道、倶利伽藍峠付近で日暮れとなり、これを知った町民たちが手に松明や燈火用の行燈を持って出迎えた。これが現在まで続く「福野夜高祭」の始まりであるとされている。

出典

・福野町史編纂委員会編『福野町史 通史編』1991年

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