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安永の曳山車騒動

安永4年(1775)12月14日、西上町組合頭谷屋吉兵衛や塗師屋治五右衛門、東上町殿村屋和助などの7名が魚津の盗賊改方役所へ出頭を命ぜられた。騒動の原因は、高岡の曳山総代が「放生津(新湊)の曳山車は藩主拝領の高岡の曳山車に似せたものだ」と抗議したことから始まった。騒動が大きくなり、高岡町奉行の手に負えなくなったため、魚津の盗賊改方役所にて詮議することとなった。放生津のほか、城端と今石動の曳山関係者も召喚され、曳山車について尋問されることとなった。

藩庁は「高岡の車山は、豊臣秀吉が前田利家に与え、その後利家から前田利長に譲られ、利長が高岡町民に与えたという由緒があり、他の神社祭礼に高岡車に類似した車山を曳くことは禁止する。しかし、大八車ではなく地車なら曳くことはかまわない。」と決定した。この決定は明治時代まで続き、大八車様式の曳山車は禁止された。曳山車の使用に制約が設けられたことによって、城端では新しい御神像の制作や曳山の装飾に力が入れられるようになった。

出典

・城端曳山祭保存会『城端神明宮祭の曳山行事』2017年

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