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城端大工

近世のはじめ、諸大名がその支配地に町や都市を建設する際、大工や鍛冶など、必要な工人を優遇して各種の特権を与えていた。城端にも、加賀藩二代藩主利長から特権を与えられた五人大工のグループがあった。天正14年(1586)、藩主利長が越中守山城の修築を行った際に、城端の大工与兵衛、角右衛門、十右衛門、七郎兵衛、与七郎の5人は、井波の大工5人とともに参加して城普請の御用をつとめた。文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵にあたり、かれらは再び藩命を受けて九州長崎にて船舶造りに従事した。文禄3年(1594)、これらの功によって城端大工5人と井波大工5人には、藩主利長から褒美として一人につき120歩の屋敷地を与えられた。屋敷地を与えられたのはいまの大工町あたりで、それゆえに町名も「大工町」と名付けられた。

当時5人だった大工は、元禄6年には16人に増加して、藩の御旅屋・御蔵橋の修復や、金沢城中の作事など、藩の御用大工としてつとめていた。御用大工としての特権が次第に消滅していくと、自ら生きる道を開くため、善徳寺の鐘楼や山門建築に携わり、城端大工の伝統を守った。城端大工は善徳寺大伽藍の造立において精技を発揮し、宗教的・文化的・観光的に後世に大きな影響を与えた。

出典

・城端曳山史編纂委員会『城端曳山史』1978年

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