福野縞(ふくのじま)
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旧福野町では、明治から昭和にかけて「福野縞」と呼ばれる綿織物が盛んに生産され、日常生活にも幅広く普及していた。福野縞は、縞柄の美しい木綿の織物で、江戸時代後期の寛政6年(1794)、加賀藩の命を受けた寺嶋屋源四郎が、越中福野村で本格的に生産を開始した。寺嶋屋源四郎は越後縮(えちごちぢみ)の製織を視察し、職工を雇って連れ帰り、福野の住民に製織を伝授した。そして文政3年(1820)には、幅広く普及していた菅大臣縞の生産に乗り出した。菅大臣縞とは、当時一般に普及していた桟留縞(さんどめしま)の一種であり、京都市下京区の左大臣菅原道真の生誕地である菅大臣町で織られたものである。加賀藩の奨励もあり、福野では盛んに菅大臣縞が織られるようになり、それ以降福野の菅大臣縞は福野だけでなく加賀藩の経済をも支えるまでになった。
明治に入り、需用の増加に応じて福野縞も生産を拡大し、販売先は全国に及ぶようになった。増え続ける需用に応じるため、織物業者は原料を出して下職に織らせる出機(だしはた)という形をとるようになった。この出機は東西砺波・婦負・射水郡に加えて、石川県河北郡にまで広がり、その数は9000台にまでおよび、年間生産量は45万反に達した。そして明治19年(1886)頃から、2本の糸をより掛した双子糸が用いられ「双子縞」として生産量が飛躍的に伸びた。
大正期に入ると、機織り機も手織り機から足踏み機や動力機が主流になり、更に生産量は伸びた。販売先は国内のみならず、中国や朝鮮、東南アジアなどの海外にまで広がった。昭和に入っても福野縞は生産を伸ばし続け、福野は日本でも有数の綿織物生産地として知名度も上がった。戦争が始まると次第に物資が不足になり、福野縞の生産も次第に低下したが、大戦後は、朝鮮戦争を契機に一時は福野縞の生産も盛んになった。しかし、化学繊維が主流となり始めると、染糸を織り上げるという「福野縞」は次第に姿を消していき、昭和50年代以降は生産されなくなった。
このように「福野縞」は、かつて日本有数の特産物として福野に飛躍的な経済発展をもたらし、砺波地域の中心的な存在にまで高めた。福野縞は福野の経済力を高めただけでなく、日常生活に幅広く用いられ、菅大臣盆の慣習に見られるように福野の住民に深く溶け込んでいた。福野縞は、資本および技術の蓄積を通じて福野の産業・文化の礎を築いてきたとも言える。福野縞が途絶えてしまったことで、その名を知る者も少なくなってきており、菅大臣盆の慣習も途絶えてしまった。しかし現在は、福野の有志の方々が集まって、この福野縞を再現しようとする試みがなされている。
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