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南砺市に存在している数多くの文化芸術資源に関する情報の一元化がこのページの目的です。 旧8町村の町史・村史等から文化芸術に関する情報をピックアップし、このページに集約しています。こちらのページは、市民の皆様の文化的知識を集約し、反映することも目的としているため、皆様から情報収集を行いながら少しずつ作り上げていくコンテンツです。
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※本ページは、JSPS科研費JP16K14997の助成を受けた成果物に基づき作成しております。
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城端曳山祭にて登場する、西下町の曳山。”堯王像”を安置している。原作は享保年間で年代を経て随時修繕・補修され、明治・大正の改修により構造・形態が拡大、今日の曳山が形成された。
構造は...
井波地域は、「井波風」と呼ばれる強風が吹く地帯であり、それが原因で昔から多くの大火を経験してきた。記録に残されている最大のものは宝暦9年(1759)4月24日の南大風による火災である。井波町は数...
九月十五日、十六日の秋期祭礼は、神社参拝を主として、春季祭礼のように神輿渡御も曳山なども行われない。神社では大祭神事が行われ、浦安の舞の奉納もある。昭和二十年以来、この秋期祭礼の寂しさを補うため...
福光は加賀国境の霊峰医王山下に位置しているので、古くから山岳信仰を伝えてきたと考えられる。文明十三年(1481)福光城主石黒光義が瑞泉寺一揆に敗れたとき、医王山の寺坊も焼き払われてしまい、長らく...
川上中は、藩政の頃は中村といわれ、寛文10年の藩から下付された村御印には井口中村と書かれている。
しかし、明治12年に同じ砺波郡内に中村が4か村もあったため、川上中村に改称した。その...
五箇山といえば〝平家の落人が来たところ″ということで名が高い。落人のことについては、上平村にも確かに話が伝えられていて、落人屋敷や控え屋敷などがあり、落人が逃れてきたときの様子などが哀れに伝えら...
五ヶ山の文字が、文献にはじめて見られるのは、現在のところ上平村細島生田長範氏蔵の方便法身尊像の裏書きで、
大谷本願寺釈実如(花押)
永正十五年戊寅五月□□日
...
寛永7年(1667)に加賀藩の罪人(金沢藩士)が祖山へ流されたのが始まり。元禄3年(1690)から五箇山は藩の流刑地となった。加賀藩の流刑地は庄川の右岸の集落に限られていた(猪谷、田向、大島、大...
五ヶ山は畑作地帯であり、水田が無かったから、米を主食にすることが無かった。平野部の水田地帯でも百姓家庭では混食し、団子で補うのが普通であった。五ヶ山の村々の家庭では稗・粟・またびえ・麦・豆類・大...
五ヶ山中においては養蚕は耕作に次いでの主産業であった。和紙作りとともに屋内作業で、女子の仕事とされた。口承によると、五ヶ山の養蚕による繭糸すなわち生糸作りは、南北朝時代に新田義貞の一族郎党によっ...
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