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南砺市に存在している数多くの文化芸術資源に関する情報の一元化がこのページの目的です。 旧8町村の町史・村史等から文化芸術に関する情報をピックアップし、このページに集約しています。こちらのページは、市民の皆様の文化的知識を集約し、反映することも目的としているため、皆様から情報収集を行いながら少しずつ作り上げていくコンテンツです。
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※本ページは、JSPS科研費JP16K14997の助成を受けた成果物に基づき作成しております。
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慶安二年(1649)の福野の町立てから2年程の間に64戸の家並みがそろったが、慶安五年(1652)2月、不幸にして大火に見舞われて全戸が焼失した。当初に町をつくった人々の多くは付近村落の小前百姓...
近世のはじめ、諸大名がその支配地に町や都市を建設する際、大工や鍛冶など、必要な工人を優遇して各種の特権を与えていた。城端にも、加賀藩二代藩主利長から特権を与えられた五人大工のグループがあった。天...
1623~不明。人形師の始祖。木屋仙人とも称される。享保元年(1716)に西下町の「堯王像」を制作したと伝えられている。その彫刻・人形師の技術はどのように習得したか、来歴はなどは明らかではない。...
安永4年(1775)12月14日、西上町組合頭谷屋吉兵衛や塗師屋治五右衛門、東上町殿村屋和助などの7名が魚津の盗賊改方役所へ出頭を命ぜられた。騒動の原因は、高岡の曳山総代が「放生津(新湊)の曳山...
初代和助(1734~1806)は城端焼を創始し、殿村屋和助、唐津屋和助とも称された。曳山の人形作者、城端における江戸期の代表的な画家としても知られる。和助は紺屋を本業とする家に生まれたが、「唐津...
城端曳山祭にて登場する、出丸町の曳山。”布袋像”を安置している。曳山の原作は享保5年(1720)で、高砂山と称され”尉と姥”を安置していたが、宝暦12年(1762)布袋山に改められ、さらに唐子山...
城端曳山祭にて登場する、東下町の曳山。福寿山とも呼ばれている。”大黒天像”を安置している。曳山の原作は享保年間で、その後の修繕・増補によって形態・構造が拡充された。
構造は輻車(やぐ...
城端曳山祭にて登場する、西上町の曳山。”恵比寿像”を安置している。原作は享保の初め頃で、安永年間に7代目小原治五右衛門林好が作りかえた。その後、嘉永元年(1848)に9代目・10代目治五右衛門が...
城端曳山祭にて登場する、大工町の曳山。”関羽と周倉像”を安置している。享保年間に作られた原作は、明治33年(1898)の大火で焼失したため、明治39年に復元、再造された。
構造は輻車...
城端曳山祭にて登場する、東上町の曳山。”寿老像”を安置している。享保年間に作られた曳山は、安永年間に7代目小原治五右衛門林好によって改作され、その後も代々の手が加えられた。明治40年(1907)...
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