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南砺市に存在している数多くの文化芸術資源に関する情報の一元化がこのページの目的です。 旧8町村の町史・村史等から文化芸術に関する情報をピックアップし、このページに集約しています。こちらのページは、市民の皆様の文化的知識を集約し、反映することも目的としているため、皆様から情報収集を行いながら少しずつ作り上げていくコンテンツです。
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※本ページは、JSPS科研費JP16K14997の助成を受けた成果物に基づき作成しております。
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近世のはじめ、諸大名がその支配地に町や都市を建設する際、大工や鍛冶など、必要な工人を優遇して各種の特権を与えていた。城端にも、加賀藩二代藩主利長から特権を与えられた五人大工のグループがあった。天...
1623~不明。人形師の始祖。木屋仙人とも称される。享保元年(1716)に西下町の「堯王像」を制作したと伝えられている。その彫刻・人形師の技術はどのように習得したか、来歴はなどは明らかではない。...
初代和助(1734~1806)は城端焼を創始し、殿村屋和助、唐津屋和助とも称された。曳山の人形作者、城端における江戸期の代表的な画家としても知られる。和助は紺屋を本業とする家に生まれたが、「唐津...
城端漆器は、城端蒔絵として広く知られている。現在、城端蒔絵として世に伝わるものを見ると、大体二つの様式に分けることができるといわれている。一つは密陀蒔絵のもので、他は白漆蒔絵である。密陀蒔絵は、...
画人。本名を左馬太郎といい狩野芳崖の門下である。竹内栖鳳とも同門であった。浅井忠の後を継いで京都国立陶器試験場長になり、京都の陶磁器業の発達に貢献した人である。当時の福光の人達はことごとく素空の...
彫刻家・陶芸家。明治21年(1888)、福光新町村生まれ。東京美術学校彫刻科を卒業後、美濃陶器工業学校に奉職。しばらくして郷里に戻り、高岡工芸学校に教鞭をとった。木彫、塑像いずれも卓越した手腕を...
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