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南砺市に存在している数多くの文化芸術資源に関する情報の一元化がこのページの目的です。 旧8町村の町史・村史等から文化芸術に関する情報をピックアップし、このページに集約しています。こちらのページは、市民の皆様の文化的知識を集約し、反映することも目的としているため、皆様から情報収集を行いながら少しずつ作り上げていくコンテンツです。
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旧福野町。庄川町の古上野が近世のはじめ庄川の洪水で屋敷・田畑を流失した。人々は高堀・墓浦・長源寺などへ移り、新しく上野村を立てた。
旧福野町。高儀新村のうち川除島の104石余りを株分けし、更に104石を新開し、天保十年(1839)に一村立てが許されて、川除新村と呼ばれるようになった。
旧福野町。昔、長源寺(長玄寺)という一向宗の寺があったが、その後、富山へ移った。長源寺屋敷跡というのが残っており、小字に寺田・寺林・門屋敷など、寺に関係した名が見える。
旧福野町。口碑に「此地を高楊(多加牧岐)といったが、高儀と書くようになった」とある。
旧福野町。この地を「富野」と呼ぶ。普願寺の開祖の浄春が明徳元年(1390)、綽如上人越中下向の際に弟子となり、村の人々も浄土真宗に帰依したと伝えられる。
旧福野町。中世の院林郷内の一村である。永禄年間(1558~1570)蓮沼城主、椎名康胤の家臣柴田久光がここに築城したと伝えられる。元和(1615~1624)のころの史料には柴村13軒、田屋村15...
旧福野町。村は小矢部川右岸にあり、「津」つまり舟着場があった。それが小矢部川の上流にあることから「上津村」と名付けたのであろう。
旧福野町。この地は庄川本流の跡で「本江」は「本郷」の略であると思われる。現在古村と呼ばれているところが本村で、東島・西島・砂田島と呼ばれているところが新村に当たるのだろう。
旧福野町。村名の由来は、野尻城の古跡があることによる。野尻は川原(新開地)と古村に分かれ、大昔の野尻川跡を開いた岩武新村を挟んでいる。中世の福野地区の大部分は野尻郷であった。この野尻という名称は...
旧福野町。寺家の名は、この地に多くの寺院があって栄えたことからそのように呼ばれたとされている。近世の初頭までには開拓がほとんど終わった古い村である。寺家新屋敷は寺家村の新開地であり、桃井直常の家...
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