文化遺産

城端曳山祭 (ユネスコ無形文化遺産登録名称「城端神明宮祭の曳山行事」)

最終更新日:2019/02/22

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城端曳山祭は、平成14年2月に「城端神明宮祭の曳山行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。毎年5月4日に宵祭、5日に本祭が行われます。江戸時代中期から続いており、300年の歴史を誇ります。平成28年11月30日(日本時間12月1日)には、この「城端神明宮祭の曳山行事」が、国内18府県33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。

城端曳山祭とは

5月4日の宵祭は、御旅所(おたびしょ)に神社を出御された神様がお移りになる旅所の夜です。西上町、西下町、東上町、東下町、出丸町、大工町の6か町の若連中はその年の曳山順に従って御旅所へ参拝し、各町の庵唄を奉納します。日が暮れると、町民たちは家族連れで御旅所に参拝し、御神像は山宿(やまやど)と呼ばれる家に飾られ、一般に公開されています。

5月5日の本祭では、獅子舞・剱鉾(けんぼこ)・各町の8本の傘鉾や四神旗(ししんき)が行列し、続いて3基の神輿(春日神輿・八幡神輿・神明神輿)、さらに庵屋台と曳山が神輿の渡御にお供して巡行します。先頭に立つ獅子舞と剱鉾が悪霊を鎮め邪鬼を払い、傘鉾は神霊をお迎えします。この巡行は古い神迎え行列の形式を残したまま、現在まで伝わっており、城端曳山祭の大きな特色となっています。

城端曳山祭には、城端神明宮の氏子である西上町・西下町・東上町・東下町・出丸町・大工町・新町・野下町・南町の9町が参加します。そのうち、西上町・西下町・東上町・東下町・出丸町・大工町の6町は、曳山と庵屋台を持っており、「山町」と呼ばれています。この山町に加えて、新町と野下町の8町が傘鉾を持っており、新町は剱鉾、野下町と南町は獅子舞で曳山祭に参加します。

曳山の名称は、西上町「竹田山(たけだやま)」、西下町「諫鼓山(かんこやま)」、東上町「鶴舞山(つるまいやま)」、東下町「東耀山(とうようやま)」、大工町「千枚分銅山(せんまいぶんどうやま)」、出丸町「唐子山(からこやま)」です。精緻な彫りと塗りが施された絢爛豪華な6台の山車が、ギューギューときしり音をひびかせて城端の旧市街を厳かに曳き廻されます。京都祇園の一力茶屋(いちりきぢゃや)などを模した精巧な庵屋台がそれぞれの曳山を先導し、その中では、篠笛、三味線の音色にのせて城端独特の庵唄が唄われます。

また、祝儀をだして庵唄を自分の家で聞くことができる庵唄所望(いおりうたしょもう)というものがあります。6か町の庵屋台が次々に所望する家に横づけになり、各町の選定した歌詞を書いた短冊を渡し、庵屋台の中に入った若連中といわれる囃子方、唄方が庵唄を披露します。

夕刻からは、曳山の提灯に灯がともり美しい提灯山となって市街地を巡行します。午後10時になると、車輪がきしむ大きな音とともに見事な連携による各町曳山の迫力満点の引き返しが展開されます。

庵唄所望

曳山祭の歴史

城端曳山祭は、享保の初めに城端神明宮の祭礼として始まったとされています。当時の城端は絹織物業によって繁栄しており、京都との経済交流によって元禄文化の花も開きました。しかし享保期になると経済が不況になり、それを打開するために神をまつり、招福除災、町内繁栄を祈るようになりました。享保2年(1717年)に神輿がつくられ、獅子舞や傘鉾の行列も始まりました。享保4年に曳山が創始され、享保9年には神輿の渡御にお供しました。それまでは主に上方(京都)の文化の影響を受けていましたが、文政年間(1818~1830年)になると、江戸の文化の影響を強く受けるようになりました。江戸で流行していた江戸端唄を源流として、城端の庵唄も生まれました。また、東上町では江戸新吉原の料亭をモデルにして、庵屋台を修復しました。化政文化の影響を受けて庵唄や庵屋台が整備され、優雅な曳山祭になりました。

幕末から明治にかけて、社会不安のために曳山祭が中止された時期もありましたが、明治6年(1873年)に太陽暦が採用されたことをきっかけに、祭礼日が5月15日へと変更されました。明治31年(1898年)4月15日に発生した城端大火では多くの家屋に被害を出したほか、大工町の曳山と庵屋台も焼失してしまいました。その後、明治39年の日露戦争終結から大正末期にかけての約20年間、各町では曳山の改装競争が行われました。曳山や庵屋台は豪華なものになり、近代の絢爛豪華な曳山祭が確立されていきました。

およそ300年もの間、改造・増築・修復を繰り返して現在の絢爛豪華な曳山へと至っています。この曳山文化を支えてきたのは、人形師・大工・指物師・彫刻師・塗師・絵師・蒔絵師など、地元城端の職人たちです。御神像の多くが、城端の人形師荒木和助(18世紀中頃~後期に活躍)の制作したものであり、各時代の改造は、城端塗の白蒔絵師である歴代の小原治五右衛門が仕切ってきたといわれています。

参考文献

・安カ川恵子「城端曳山祭―男たちの熱い思い」阿南透・藤本武編『富山の祭り―町・人・季節輝く』
・城端曳山祭保存会『城端神明宮祭の曳山行事』
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