文化遺産

五箇山合掌造り集落

最終更新日:2019/02/22

五箇山合掌造り集落の画像

1995年、相倉集落と菅沼集落は岐阜県の白川郷とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

南砺市相倉、菅沼集落は富山県の南西部、岐阜県との県境近くに位置する山村集落で、この地域は「五箇山」と呼ばれています。日本海へ注ぐ庄川が霊峰白山を中心とする深い山岳地を縫うようにして流れるこの地域は、「合掌造り家屋」を中心とした伝統的な集落景観と周辺の自然環境がよく残っています。「合掌造り家屋」とは、白川郷・五箇山地方で、特徴的に見られる急傾斜の切妻造り・茅葺きの民家のことです。1階は大工の手で造られ、屋根を構成する合掌部分は村人が自分達で造ったものです。広い屋根裏では養蚕が行われていました。

またこの一帯は日本有数の豪雪地帯でもあり、1950年代までは「日本に残された最後の秘境」と呼ばれるほどに、地域外との交渉は極めて限定されたものでした。現在は太平洋側と日本海側を結ぶ東海北陸自動車道が通り、物流の要所として、また富山県の産業、観光の南の玄関口として多方面から注目されています。

相倉集落

庄川左岸の川面よりやや高く離れた標高約400mの河岸段丘面に位置し、周囲は山林で囲まれています。段丘面は北東から南西へ約500m、南北から北西へ200~300mの細長い土地で、この平坦地に屋敷地と耕作地があり、さらに北西および南東の傾斜地の一部も耕作地に取り込まれています。集落西側の山腹はブナ、トチ、ミズナラなどの広葉樹が生い茂り、集落を雪崩から守る雪持林として維持されており、雪持林や山腹にある茅場などを含めた地域が史跡に指定されています。

集落には、23棟の合掌造り家屋が現存しており、現在も住民の方々が世界遺産の中で生活しています。現存する合掌造り家屋の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたものですが、最も古いものは17世紀にさかのぼると考えられます。集落内には合掌造りの民宿があり、宿泊することも可能です。五箇山の素朴な人情と山里の文化に触れることができます。

 

○相倉民俗館 相倉伝統産業館

古くからの生活用具や民俗資料、藩政のころから主産業だった養蚕や製紙の用具を展示しています。五箇山地方の歴史、文化などを紹介した資料映像・パネルなどもあります。五箇山の人々の暮らしをうかがい知ることができます。

菅沼集落

庄川が南から東へ流れを大きく変える地点の右岸南北約230m、東西約240mの舌状に突出した標高約330mのほぼ平坦な河岸段丘面に位置し、三方を庄川の流れが囲み、南側と庄川対岸は急峻な山地となっています。

平地は屋敷地と耕作地が占め、集落の南側背後はブナ、トチ、ミズナラなどの広葉樹が生い茂る急傾斜の山腹で、集落を雪崩から守る雪持林として保存されています。雪持林や山腹にある茅場などを含めた地域が史跡に指定されています。

集落には、9棟の合掌造り家屋が現存しており、相倉と同様に住民の方々が生活しています。これらの合掌造り家屋は江戸時代末期(19世紀前期~中期)に造られたものが2棟、明治時代に建てられたものが6棟、最も新しいものは大正14年(1925)に建てられていて、このころまで合掌造りの家が建築されていたことがわかります。菅沼は小さいながらも日本を代表する山村集落として、昔からの景観を変えることなく、訪れる人々に歴史を語り続けています。

 

○五箇山民俗館

合掌造り家屋を資料館として公開しています。かつて養蚕や紙漉きなどに用いた道具や、先人の知恵と工夫が凝らされた生活用具など、約200点の貴重な資料を展示しています。山村の伝統的な暮らしの姿を今に伝えています。

 

○塩硝の館

江戸時代、加賀藩の支配下にあった五箇山では、火薬の原料となる塩硝づくりがさかんに行われていました。300年以上続いた塩硝製造の道具を展示し、その過程を材料採取から出荷まで、人形や影絵などを用いて分かりやすく再現しています。

村上家(国指定重要文化財)

高さ10.96m、幅10.74m、奥行き20.37m、一重四階合掌正面切妻入茅葺きの住宅です。合掌の部分には、かすがいなどの金属は一切使わずに建てられています。天正年間(1573~1591年)に建てられた五箇山の代表的な合掌造り家屋で、古風古式の遺構が当時のまま残されています。館内には、塩硝製造の資料や和紙造りの道具など民俗資料約1000点が展示されています。

岩瀬家(国指定重要文化財)

五箇山最大の合掌造り家屋であり、築300年と言われています。養蚕・塩硝・和紙づくり、接客・住居と、職住一貫の民家であり、当時は35人の家族や使用人が住んでいました。大きさ、構造、仕上げなど、合掌造り民家としてもっとも発達した後期形式が特徴です。

五箇山の歴史

この地方は通称「五箇山」と呼ばれ、8世紀頃から白山を信仰対象とする修験の行場として開かれ、15世紀中頃になると浄土真宗が地域一帯に浸透しました。現在でも人々は信仰に篤く、浄土真宗は人々の精神的な結びつきの拠り所となっています。また、浄土真宗の布教の歴史上においても由緒深い地域であり、奥深い山間の地であることから、源平の争いに敗れた平家の落人が住み着いたという伝説が今でも語り継がれるところでもあります。

藩政時代の五箇山は加賀藩に属しており、明治時代になり町村制が始まると、相倉、菅沼集落はそれぞれ富山県平村、上平村に所属し近代的な行政組織に組み込まれていき、平成16年には平村と上平村は近隣の6町村と合併し、南砺市となり現在に至っています。

 

 

○産業

江戸時代の五箇山は水利の不便な山間地であったために稲作は少なく、わずかな畑や焼畑で稗や粟、そばなどを栽培し、細々と食糧の自給を行っていました。また、主要な産品は、和紙、塩硝、養蚕であったことが知られています。

 

和紙は主要な農産物がなく積雪期の長い山村の換金生業として重要な産業でした。その生産は江戸時代初期より行われていましたが、明治時代になり機械による洋紙の生産が始まると次第に衰退していきました。

 

塩硝は重要な軍用物資であったため、加賀藩によって厳しく統制され、また特別に庇護されていました。生産方法はヨモギのような雑草を蚕のフンと共に土に混ぜて3~4年をかけて土壌分解し、それを精製して硝酸カルシウムの結晶を抽出するものでした。その生産は16世紀末頃から行われていましたが、明治時代になり、硝石が輸入され始めるとその生産は行われなくなりました。

塩硝は家屋の床下の地面を掘り下げた穴の中で土壌分解させていたので、このことが大規模で床部分の多い合掌造り家屋生み出した要因の1つだとされています。

小屋内(アマ)を利用して行われていた養蚕

養蚕は16世紀以前に始まり、藩政時代以降はこの地方の最も重要な産業となりました。これは明治時代になって衰退していく和紙と塩硝生産を補って余りあるもので1970年頃まで続いていましたが、現在では全く消滅してしまいました。養蚕も桑の集積や蚕の飼育に広い空間を必要としたので、小屋内(アマ)の空間を積極的に利用する合掌造り家屋の発達に大きく関わったと考えられます。

 

 

○社会制度

五箇山の集落には、「組」と呼ばれる生活上の互助組織が江戸時代から続いています。季節ごとや日常の作業を共同で行い、または順番に当番を出して助け合います。また、冠婚葬祭や茅葺き屋根の葺替え作業などには「ユイ(結い)」や「コーリャク(合力)」と呼ばれる相互扶助の伝統的な慣習があります。このような社会制度が生まれてきたのは、厳しい自然条件の下で生きるために相互扶助が不可欠だったからと考えられます。

また、より生活条件の厳しい集落によっては、かつては大家族制度が存在しました。この制度は分家を行わないで数世代の家族が共同生活を営むもので、日本ではこの地方独特の制度として学術的にも注目されましたが現在では消滅しています。

合掌造り家屋の価値

日本は世界のなかでも木造建築の文化が発達した最も重要な国の1つです。国内の建造物は宗教建築や城郭をはじめ、民衆の住居である民家もほとんどが木造建築でした。これらの多様で完成度が高い伝統的な木造建築の中でも「合掌造り家屋」は日本のどの地方にも見られない極めて独特な形態であり、日本で最も発達した合理的な民家の1つの形態であるといえます。

ドイツの著名な建築家ブルーノ・タウトは、1933年から36年まで日本各地の建築を精力的に見て歩き、日本建築について多くの著作を著していますが、その彼が、「合掌造り家屋は、その構造が合理的であり、論理的であるという点においては、日本全国まったく独特の存在である。」と驚嘆していることは、この様式の家屋が日本中の他のどの地域でも見ることの出来ない顕著な特色を持っている証となっています。

 

合掌造り家屋の特徴は次のとおりです。

1) 他の地方の民家に比べて規模が大きく、屋根は勾配が60度近くもある急傾斜の茅葺きの切妻屋根であること。

 

2) 日本の一般的な民家では、小屋内(屋根裏)は全く利用しないか、資材を備蓄するための消極的な利用であるが、合掌造り家屋では、小屋内を2~4層として、養蚕の作業場や桑の葉の集積場所などとして積極的に利用していることは日本では極めて異例であること。

 

3) 叉首(さす)構造で切妻とし、棟方向の外力に耐えるよう、屋根野地面(のじずら)に筋違い(すじかい)を入れて野地を一体化することによって補強し、構造上の弱点を克服している。この工夫も他の地域では決して見ることのない技術であること。

合掌造り家屋の構造

文化財指定による保存の歴史

1959年頃の菅沼集落

五箇山地域は、塩硝や養蚕等の産業によって安定的に発展してきましたが、戦後の1950年頃から起こった日本の急激な経済発展により、深刻な過疎問題が発生しました。同時に、多くの合掌造り家屋は取り壊され、また現代の建物に改築されてその数を急激に減少させていきました。

この状況を深刻に受けとめた文化庁(当時は文化財保護委員会)では、1951年と56年に五箇山で民家の調査を実施し、合掌造り家屋の代表的なもののうち、1958年に平村の羽馬家、村上家と上平村の岩瀬家をそれぞれ重要文化財に指定しました。

平村相倉集落と上平村菅沼集落は、1970年に、地元からの要請を受けて文化庁が国史跡に指定し、合掌造り家屋の保存を図りました。なお、世界遺産登録にあたっては、荻町集落に合わせて相倉、菅沼の2集落も伝建地区制度を導入し、保存の手法を統一することとして保存条例、保存計画が策定され、1994年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

遺産の真正性

相倉、菅沼の2つの集落は、江戸時代以来の集落として存在し続けて、集落それぞれの地理的立地条件や境界に変更はありません。集落の中には保存の措置が取られる以前に自動車道路が開設されましたが、それ以外では旧道や水路、宅地や耕作地などの構成に大きな変化はなく、歴史的集落としての真正性は保たれています。

合掌造り家屋をはじめとする集落を構成する歴史的な建造物は、その保存が義務づけられ、現状を変更するときには届け出て許可を受ける必要があり、歴史的価値を損なう変更は認められません。また、その他の建築物の新築・改築等も原則禁止とされ、許可される場合も地区の歴史的風致に調和した形態が求められます。

維持修理の多くは、茅葺き屋根の葺替えですが、地元で採取される伝統的な材料を使用し、伝統的な技法によって葺替えられ、真正な形態を保持しています。また、一部の家屋では老朽化による修理が行われていますが、これらの修理においては文化財の修復に経験の有る建築家が設計管理し、意匠・材料・技術の真正性の保持を保証しています。なお、水田や畑などの集落の構成要素や周辺の環境についても保存計画やその他の法令により現状の変更が厳しく規制されており、文化的景観と自然環境の真正性も保証されています。

参考文献

・合掌造り集落世界遺産記念事業実行委員会『世界遺産白川郷・五箇山の合掌造り集落』
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