文化遺産

福野夜高祭

最終更新日:2019/02/22

福野夜高祭の画像

南砺市福野地域の春宵を彩る福野神明社の春季例大祭「福野夜高祭」は、福野の町立て直後から約360年以上続く歴史ある祭りです。毎年5月1日、2日の夜、太鼓と笛の前触れも賑やかに、大小合わせて20本余りの行燈が町内の若衆ら担ぎ手によって市街地を勇壮・優美に練り廻り、南砺地方の春の風物詩として一大偉観を誇っています。

2017年12月には、この祭りを100年後の子供たちに残し伝えていこうとするプロジェクト、「福野夜高祭~『厄災からの復興の心』を引き継ぐプロジェクト~」が、「プロジェクト未来遺産2017」として日本ユネスコ協会連盟が推進している「未来遺産運動」に登録されました。

福野夜高祭とは

福野夜高祭は、福野神明社春季例大祭の宵祭り(神迎え)のことを指します。1日、2日に宵祭りである福野夜高祭が行われたあと、本祭りである曳軕巡幸が3日に行われます。

福野夜高祭は福野神明社の氏子である上町・七津屋・新町・浦町・辰巳町・横町・御蔵町の7町の人々によって行われています。この7町の中央に位置する「銀行四つ角」周辺を中心に祭りは行われ、各町の大小様々な色鮮やかな行燈が練り回され賑やかに行き交います。

夕方、各町内を出発したすべての行燈が銀行四つ角に集まり、行燈を先導する夜高太鼓があちこちで打ち鳴らされます。子供行燈、大行燈の順に神明社へと参拝しに行き、その後は各町内を練り回し自分の町内へと帰っていきます。

各町の大行燈は、最後に上町通りですれ違う際に、上り行燈(上町・七津屋・新町)と下り行燈(浦町・辰巳町・横町)という二つの組に分かれて、挑発的な掛け合いを行ないます。この間、御蔵町は中立な立場を保ちます。

1日目は実際に手を出すようなことはありませんが、2日目の「引き合い」と呼ばれる互いの町の行燈を激しく壊し合う儀礼的喧嘩をすることが有名となり、福野夜高祭の最大の見せ場となっています。行燈がすれ違う際に、相手の行燈に飛び乗ったり、釣物(ツリモン)を引っ張って叩き壊したり、激しく勇敢に壊し合う様子は、とても迫力があり、見る者すべてを圧倒します。

引き合いを終えた行燈は自分の町に戻り、練り回しを終えた後に解体作業が行われます。また、深夜には「シャンシャンの儀」と呼ばれる手打ち式を行ない、来賓出席のもと各町の全裁許22名が集合して祭りを無事に終えたことの報告と確認をします。これで夜高祭が終了します。

シャンシャンの儀

【夜高行燈】

夜高行燈は複数の行燈や機材を組み合わせてつくられています。一番上に山車(ダシ)と呼ばれる最も大きい行燈がついており、山車は花鳥・人物・城郭・舟・車・神輿などの形を表しています。その下には、傘鉾(カサボコ)という幕を丸く巡らす傘状の構造物、そして釣物を吊るすための機材である蜻蛉(トンボ)が取り付けられ、釣物が吊るされます。

中心部には田楽(レンガク)と呼ばれる四角い縦長の大きな行燈があり、その前面には勇壮な武者絵、左側面には御神燈、右側面には何町氏子といった文字が描かれています。そしてその下の中心部には、欅や樫で作られている重石となる小さな車輪が付いたソリ状の摺木(ずりき)の台があり、中心には心木(シンギ)と呼ばれる柱が刺されていています。

行燈を組み立てる時は田楽、蜻蛉、傘鉾、山車を順に通して行き、最後に釣物を吊るします。また、練り回すために台には2本の台棒(ダイボウ)を金具等で固定し、台棒には前方に4~5本、後方に4本の横棒(ヨコボウ)を組み番線と荒縄で縛ります。

竹細工の骨組みに和紙を貼り、蝋を溶かして「蝋引き」と言われる方法で色が混じらぬように絵の縁取りを描きます。塗料は主に食紅や染料を使い、紅色を中心に10色程度で色がつけられて、色鮮やかな行燈が完成します。この行燈の制作過程から祭開催までの一連の行程を、町内の若連中が中心となり、子ども達から大人までが一体となって取り組むことで次世代へと受け継がれています。

 

【夜高節と夜高太鼓】

夜高節と夜高太鼓もこの祭りには欠かせません。町内の若連中がねじり鉢巻きに法被姿で、夜高節を唄いながら行燈を引き回します。拍子木に笛、太鼓の音によって、祭り気分は更に盛り上がりを見せます。

福野夜高祭の歴史

360年以上の歴史を持つ福野夜高祭は、福野町の町立直後から始まりました。慶安5年(1652年)、町立まもない福野の町で大火が発生し、町は甚大な被害を受けました。町民は町の安全を願い、福野神明社を建立するために、伊勢神宮より御分霊を勧請しました。この御分霊を奉じた一行が伊勢からの帰り道、倶利伽藍峠付近で日暮れとなり、これを知った町民たちが手に松明や燈火用の行燈を持って出迎えたことが福野夜高祭の起源であるとされています。承応3年(1654年)春祭りからは神事も始まったそうです。

当初の行燈は、小さな田楽(レンガク)のみでシンプルなものだったと考えられていますが、その後レンガクが大型化するとともに、その上に神の依り代である傘鉾、そして、傘鉾の先についた小さな飾りが巨大化した山車や飾りの釣物がつけられるようになり文久年間(1861年~1864年)には4丈(約12m)を超える高さになりました。

明治25年(1892年)には電信線が張られたことから高さが制限され、2丈5尺(7m58㎝)より高いものは作ってはならないことになりましたが、一向に守られず、警察による取締規制が出されました。その後明治42年(1909年)電話線がかけられたことにより、行燈の高さは2丈1尺(6m36㎝)に制限されました。シンプルな行燈で始まった夜高行燈は江戸時代末期には大型化し、明治期に高さ制限が設けられましたが、現在でも6m50㎝あまりの大行燈が7町全町で練り回されています。

昭和24年(1949年)の福野町開町300年祭を機に、「夜高行燈優美コンクール」が実施されるようになり、昭和30年(1955年)には、福野夜高祭の保存継承と発信のために福野夜高保存会が結成されました。近年では、平成12年開催の2000年とやま国体の折に文久の大行燈と呼ばれる高さ12メートル以上の大型の行燈が復元展示され、平成20年からは前夜のメインイベントとして練り回しが行われるようになりました。平成16年に福野夜高祭が県の無形民俗文化財に、4基の曳山が市の有形民俗文化財に指定され、ますますその価値を高めています。

 

各町で行燈の大きさや美しさを競うという対抗意識はもちろん、町全体で夜高祭を盛り上げようという熱い思いとともに、夜高祭はこれからも受け継がれていきます。

なお、平成16年11月に旧福野町が南砺市として合併して以来、商工会も合併の機運の中、旧福野商工会より夜高祭に携わるのは平成18年の夜高祭が最後となるということを旧町部の各町の代表者に伝えられました。

旧町部の住民から祭りを継承していかなければならないと言う機運が盛り上がり、各町から代表者を選出し、福野夜高祭に関係する団体を1つの組織にしようと言う話が進められ、全体の組織として平成18年10月1日に「福野中部祭礼協議会」が設立。翌年の10月には「福野夜高祭連絡協議会」に名称を変更し、以来、旧町部の住民がボランティアとして祭全体の運営と国内外への支援遠征事業に携わり、夜高祭の伝統の保存と観光宣伝の一端を担っています。

世界へ、そして未来へ

フランス・リヨン市の「光の祭典」に参加

福野夜高祭は地元・福野に根付く祭りですが、昭和40年代から東京、名古屋、京都、神戸など各地の祭りやイベントにも参加してきました。平成23年の12月には、伝染病の大流行を乗り越えた歴史を持つフランス・リヨン市の「光の祭典」に参加し、復興支援の思いを伝えるとともに、優美な姿で沿道の観衆を魅了しました。東日本大震災後は、江戸時代に南砺一体から福島県南相馬市へ移住した縁から、平成25年と平成29年の7月に南相馬市の重要無形民俗文化財「相馬野馬追」前夜祭に参加し、震災復興の願いを込めて小行燈の練り廻しを実施しました。このように、国内外で復興を願う活動が伝統の保存継承活動とともに高く評価され、「プロジェクト未来遺産2017」に選ばれました。

毎年多くの観光客が訪れる福野夜高祭は、観光資源であるとともに、福野の人々が先人たちから受け継いできた大切な伝統であり、アイデンティティーを形成する誇りでもあります。この素晴らしい伝統文化は、これからも未来に大切に継承されていきます。

参考文献

・藤本武「福野夜高祭―神を迎える壮麗な行燈」阿南透・藤本武編『富山の祭り―町・人・季節輝く』
・福野夜高保存会『万燈』
・福野町史編纂委員会『福野町史 通史編』
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